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渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年(天保12年8月) - 1913年(大正2年)10月19日〔『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』727頁。〕)は、幕末の勤王家、明治期の内務官僚、政治家、実業家。茨城県参事、御影町長、衆議院議員。幼名・政吉、後左衛門、又衛〔『新編日本の歴代知事』235頁。〕。 ==経歴== 越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・渡辺良右衛門の三男として生まれ、のち大坂の国学者・渡辺資政の養子となる。剣鎗銃砲の術を修めた。幕末の国事に奔走し、錦小路頼徳に仕え、七卿落ちの際にも随行し、錦小路死去後に東久世通禧に仕えた〔『茨城県政と歴代知事』24-25頁。〕〔「渡辺徹特旨叙位ノ件」〕。 明治維新後、神奈川府巡察補に就任。以後、同巡察、神奈川県少参事、五條県大参事、甲府県権大参事、租税寮七等出仕、秋田県参事などを歴任〔。 明治5年8月25日(1872年9月27日)茨城県参事に就任。県庁租税課に開産係を設置し農政を所管させ、水戸藩士族に開墾を、水戸の富商に会社設立などを勧め、また、水戸に種痘局を置いた。1873年2月22日に依願免本官となる。また同時に理由は不明であるが位記返上を命ぜられた。一年半を経て長崎県参事として復帰し、1877年1月に退官した〔。その後、兵庫県武庫郡長兼菟原郡長、飾東郡長兼飾西郡長、明石郡長、御影町長などを歴任〔。 さらに醸造業を起こし、灘酒家銀行頭取、全国酒造業者組合連合会長、神戸貯蓄銀行頭取、日本酒造火災保険 (株) 社長などを務めた〔。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に兵庫県第二区から出馬し当選したが、同年12月1日に議員を辞職した〔〔『官報』第2830号、明治25年12月2日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺徹 (政治家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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